自分の世界を取り戻し、自分の世界を守ることこんにちは。TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。ヨガと瞑想のクラスで、なにを目指しているのか。目指している場所をこちらに綴っておきたいと感じ、今回のブログを始めていきます。目指す場所ですので、氣合いを入れて書きます。そのため、少し長いです。お時間のあるときに、お読みいただけたら幸いです。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~瞑想で目指す場所は、瞑想をする人により様々であり、「こころ穏やかに日々を過ごすこと」「自分を見つめること」「悪習間や中毒から開放されること」はたまた「超能力を手に入れること」など様々かと思います。そのいずれの目的も瞑想を行うことによって達成可能かと思うのですが、わたしがクラスで行う瞑想で目指している場所というものがあります。何を目指しているのか初めに申し上げると、「自分の世界を取り戻し、自分の世界を守ること」を目指しています。「???」「自分の世界を取り戻す?世界が奪われているってこと?」「自分の世界を守る?どういうこと?」とお感じになる方も多いと思いますので、順を追ってひも解いていきたいと思います。では、いきます。話を進める上で、「わたしたちは、一人ひとり違う世界を生きている」ということが、ベースとなりますので、初めにそちらをインドに伝わる昔話を例に用いながら話を進めていきます。以下、インドに伝わる昔話です。(うろ覚えなので本来の形とは違う可能性が大いにありますが、話の筋は通します。)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160316/16/ikikatanostyle/e2/d5/j/o0800053013593752846.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20160316/16/ikikatanostyle/e2/d5/j/t02200146_0800053013593752846.jpg" alt="" border="0" /></a><em>とあるインドの片田舎に、2人の少年が居ました。少年たちに親はなく、日々物乞いをして生活をしていました。少年の一人は、生まれた時から目が見えませんでした。2人は協力し合って、生活していました。ある日、いつものように町へ物乞いに出かけようとしましたが、目の見えない少年は体調を崩しています。「今日は、体が重たいよ。町へ出かけられそうにないなあ」目の見えない少年は、そう言い辛そうです。「そっか、じゃっ俺がお前の分も稼いでくるからよっ。心配すんなっ。」目の見える少年はそう応え、ひとり町へ出かけました。町は賑わっていました。その日、ちょうどお祭りの日だったのです。人が群がっている場所を覗き込むと、おかゆを配っています。「うわー!うんまそうだなあ。おいらにひとつおくれ。」少年はおかゆを手にし、喉に流し込みました。「これはうまいなあ。もうひとつ、おかわり!!」おかわりを平らげていると、ふと、待っている目の見えない少年のことを思いました。「ああ、あいつは体を崩して寝ているんだったな。こんなうまいものを持っていってやったら、きっと喜ぶぞう。」そう思いましたが、お椀を持っていないことに氣がつきました。「まいったなあ。お椀がないと持って帰れないや。ま、いっか。あいつのことだし、許してくれっだろう。」帰った後、少年は今日の出来ごとを正直に話しました。「今日な、出かけた町でお祭りだったんだ。そこでおかゆを配っていてなあ。それが、ものずげーうんまかったんだ。お前にも持ってきてやりたかったんだけど、お椀もなくてよ、全部食べちった。」少年がそういうと、「そう、今日はお祭りだったんだね。それは、いい日だったね。僕も、そのおかゆ、食べてみたかったなあ。だけど、そんなにおいしいおかゆって、どんなおかゆなの?教えておくれよ。」目の見えない少年は、訪ねました。「そうだなあ。あのおかゆは、あったかくてなあ、ふわふわしてて、そんで白いんだよ。」少年は答えました。「あたたかくて、ふわふわしてて、白いんだねえ。。あったかくて、ふわふわしているのは、僕も分かるのだけど、その白いってどんなことを言うの?」目の見えない少年は訪ねました。「ん?白か。ん~、白はなあ。黒じゃねんだよ。赤でもねえし、とにかく白なんだよ。」少年は答えます。「うん、でも僕には、黒も赤もどんなものか分からないよ。白っていったいどんなものなんだろう?」少年が答えに詰まっていると、ちょうど目の前に白い鶴が通りました。少年は鶴を捕まえてきて、「こいつが白ってやつだよ」と目の見えない少年に渡しました。目の見えない少年は、鶴を撫でながら「ああ、これが、白なんだねえ。白って言うのは、あったくてふわふわしているんだねえ。そうか、白は、あったかくてふわふわしているものなんだねえ」と言いました。とさ。</em>~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~お読みいただきありがとうございました。以上がインドの昔話です。わたしたちは人と関わるとき、共通の認識を用いコミュニケーションを図ります。けれど、「誰にとっても共通なこと」というのは、インドの昔話が示すようになにひとつとしてないのが事実なのだと思います。例えば「おいしい」や「かわいい」といった感覚は、人により千差万別です。もちろん「セクシー」という感覚も人により違うものです。髪の毛を隠す風習のあるイラン人は、スカーフから僅かにのぞく髪の毛が最高にセクシーなのだと言います。イランを旅していた当時、わずかに覗く女性の髪の毛についておじさんに熱く語られた日は、さすがにカルチャーショックでした。わたしがグッピーであったら、そのままショック死しているところでした。しかししばらくイランにいるうちに、イラン女性が意図的に髪の毛をチョイ出ししている意図も見え隠れし、通りすぎざまの心理的な男女の駆け引きがそこに存在しているのだと氣がつき、髪の毛を見るだけで「確かにセクシーだ」と深く頷く自分が居るようにわたし自身の感覚も変化していきました。蛇足に次ぐ蛇足ですが、髪の毛を見ただけで、「セクシー」と感じてしまっていたわたしは、イランの次の訪れた「世界一ビジョの多い国(しかもそのおおくが奔放な装い)アルメニア」でいとも簡単に撃沈し、3、4日の滞在予定が、十倍に伸びてしまいました・・冗談はさておいて、わたしたちの感覚は、人によりまるで違います。そして、それが自然なことです。感覚どころか、インドのたとえ話のとおり、「白」という一見誰もに共通しそうな事柄でさえ、人により捉え方は違います。大げさでなく、耳の聞こえない人には、「音」はなく、目が見えなければ、「色」はありません。世界に色はある!!とどんな権力を用い宣言した所で、「ない人にはない」が事実です。同様に、「正しい」も「間違い」も「かっこいい」も「おいしい」も共通するものなど一切ないのです。その人が、こころから「正しい」と感じたことが「その人にとって(その人の世界)の正しい」なのです。そこに、理論や法律の出る幕などありません。つまり、「常識」や「普通」というものは、「<u></em>あった方が、多くの方が共通に話をする上で便利だから、あることにしているもの</em></u>」に過ぎないというのが事実です。「常識」も「普通」も本当はなく、虚構です。にもかかわらず、わたしたちの生きる社会では、この「常識」や「普通」が力を持ちすぎてしまっているのです。本当にはない虚構にも関わらず、本当の世界(個々が感じている世界)に侵入し、人によっては食い尽くされてしまっています。「おいしい!!」と感じたとき、それをそのまま声高らかに宣言できるでしょうか?それが流行っていないお店で飲んだみそ汁であったときと、5つ星レストランで食べた高級な料理であった時を想像してみてください。「5つ星レストランはおいしい」「流行っていないお店はおいしくない」常識とはそんなものです。ですが、真実は、「あなたがどう感じたか」と言うことに尽きます。「5つ星レストランで食べたけれど、まずいと感じた」ならば「まずい」でいいのです。「まずいと有名で流行っていない店(そんな店があるのかはしりませんが)で食べたけれど、ほっぺたが落ちるかと思った」なら、それがあなたの真実です。「まずい」と感じたのだけれど「5つ星レストランだし・・わたしの味覚がおかしいのかな?」となっては、虚の世界に食われていることに氣がつく必要があります。「~が正しい」「~は間違っている」「~は格好いい」「~を食べるのが良い」そんな虚構で世の中は満たされてしまっています。個々の力は、比例して弱まっています。「○○が正しいとわたしは思う!」という時に、理論や科学的根拠を持ち出す必要は本当はありません。「○○が美味しい!」というときにそのレストランの評判を氣にする必要も、全くありません。「あなたが、美味しいと感じたこと、あなたにとって栄養となりあなたが正しいと感じたこと、あなたがかっこいいと感じたこと。」そのすべてが信じるべきものであり、それこそが世界です。世界に皆にとって共通なこと(常識)などあり得ないのですから。一人ひとりが違う世界を生きている。それが揺るぎない真実です。だからわたしたちは、共感してみたいのです。他の人はどう感じているのか、確かめたいのです。だからこそ、会話をするのです。もし、「○○がおいしい」と答えが決まっている世界であるのなら、必要なのは答え合わせでだけであって、会話ではありません。瞑想は、瞳を閉じる所から始まります。外との繋がりを一旦切断し、内側で本当に何を感じているのかを眺めてゆきます。いろいろな価値判断や、思考の癖、そういったものが常識から植え込まれたものであることを発見しながら、奥深くに今も居る、本当の自分へとアクセスしてゆきます。瞑想は病氣を治すことで今では有名になってきていますが、病とは、「こころを否定してしまっている状態」から多くは引き起こされます。「本当のこころ」を発見し、守ってゆくこと。それは、「常識という本当にはない虚の世界から、自分の世界を取り戻し、自分の世界を守ること」に他なりません。感じたことを、堂々と、胸を張り、誰もが高らかに宣言してよいのです。クラスでは継続して瞑想を続け、「自分の世界をはっきりと取り戻すこと」を目指してゆきます。ご興味のある方は、どうぞ遊びにいらしてください。なぜか最後は宣伝になってしまいます。愛嬌としてお許しください。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。</font><a href="http://health.blogmura.com/yoga/ranking.html" target="_blank"><img src="http://health.blogmura.com/yoga/img/yoga88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="にほんブログ村 健康ブログ ヨガへ" /></a><a href="http://health.blogmura.com/yoga/ranking.html" target="_blank">にほんブログ村</a>↑読んだよ。の印にクリックいただけましたら幸いです。<font size="2">こんにちは。TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。ヨガと瞑想のクラスで、なにを目指しているのか。目指している場所をこちらに綴っておきたいと感じ、今回のブログを始めていきます。目指す場所ですので、氣合いを入れて書きます。そのため、少し長いです。お時間のあるときに、お読みいただけたら幸いです。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~瞑想で目指す場所は、瞑想をする人により様々であり、「こころ穏やかに日々を過ごすこと」「自分を見つめること」「悪習間や中毒から開放されること」はたまた「超能力を手に入れること」など様々かと思います。そのいずれの目的も瞑想を行うことによって達成可能かと思うのですが、わたしがクラスで行う瞑想で目指している場所というものがあります。何を目指しているのか初めに申し上げると、「自分の世界を取り戻し、自分の世界を守ること」を目指しています。「???」「自分の世界を取り戻す?世界が奪われているってこと?」「自分の世界を守る?どういうこと?」とお感じになる方も多いと思いますので、順を追ってひも解いていきたいと思います。では、いきます。話を進める上で、「わたしたちは、一人ひとり違う世界を生きている」ということが、ベースとなりますので、初めにそちらをインドに伝わる昔話を例に用いながら話を進めていきます。以下、インドに伝わる昔話です。(うろ覚えなので本来の形とは違う可能性が大いにありますが、話の筋は通します。)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160316/16/ikikatanostyle/e2/d5/j/o0800053013593752846.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20160316/16/ikikatanostyle/e2/d5/j/t02200146_0800053013593752846.jpg" alt="" border="0" /></a><em>とあるインドの片田舎に、2人の少年が居ました。少年たちに親はなく、日々物乞いをして生活をしていました。少年の一人は、生まれた時から目が見えませんでした。2人は協力し合って、生活していました。ある日、いつものように町へ物乞いに出かけようとしましたが、目の見えない少年は体調を崩しています。「今日は、体が重たいよ。町へ出かけられそうにないなあ」目の見えない少年は、そう言い辛そうです。「そっか、じゃっ俺がお前の分も稼いでくるからよっ。心配すんなっ。」目の見える少年はそう応え、ひとり町へ出かけました。町は賑わっていました。その日、ちょうどお祭りの日だったのです。人が群がっている場所を覗き込むと、おかゆを配っています。「うわー!うんまそうだなあ。おいらにひとつおくれ。」少年はおかゆを手にし、喉に流し込みました。「これはうまいなあ。もうひとつ、おかわり!!」おかわりを平らげていると、ふと、待っている目の見えない少年のことを思いました。「ああ、あいつは体を崩して寝ているんだったな。こんなうまいものを持っていってやったら、きっと喜ぶぞう。」そう思いましたが、お椀を持っていないことに氣がつきました。「まいったなあ。お椀がないと持って帰れないや。ま、いっか。あいつのことだし、許してくれっだろう。」帰った後、少年は今日の出来ごとを正直に話しました。「今日な、出かけた町でお祭りだったんだ。そこでおかゆを配っていてなあ。それが、ものずげーうんまかったんだ。お前にも持ってきてやりたかったんだけど、お椀もなくてよ、全部食べちった。」少年がそういうと、「そう、今日はお祭りだったんだね。それは、いい日だったね。僕も、そのおかゆ、食べてみたかったなあ。だけど、そんなにおいしいおかゆって、どんなおかゆなの?教えておくれよ。」目の見えない少年は、訪ねました。「そうだなあ。あのおかゆは、あったかくてなあ、ふわふわしてて、そんで白いんだよ。」少年は答えました。「あたたかくて、ふわふわしてて、白いんだねえ。。あったかくて、ふわふわしているのは、僕も分かるのだけど、その白いってどんなことを言うの?」目の見えない少年は訪ねました。「ん?白か。ん~、白はなあ。黒じゃねんだよ。赤でもねえし、とにかく白なんだよ。」少年は答えます。「うん、でも僕には、黒も赤もどんなものか分からないよ。白っていったいどんなものなんだろう?」少年が答えに詰まっていると、ちょうど目の前に白い鶴が通りました。少年は鶴を捕まえてきて、「こいつが白ってやつだよ」と目の見えない少年に渡しました。目の見えない少年は、鶴を撫でながら「ああ、これが、白なんだねえ。白って言うのは、あったくてふわふわしているんだねえ。そうか、白は、あったかくてふわふわしているものなんだねえ」と言いました。とさ。</em>~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~お読みいただきありがとうございました。以上がインドの昔話です。わたしたちは人と関わるとき、共通の認識を用いコミュニケーションを図ります。けれど、「誰にとっても共通なこと」というのは、インドの昔話が示すようになにひとつとしてないのが事実なのだと思います。例えば「おいしい」や「かわいい」といった感覚は、人により千差万別です。もちろん「セクシー」という感覚も人により違うものです。髪の毛を隠す風習のあるイラン人は、スカーフから僅かにのぞく髪の毛が最高にセクシーなのだと言います。イランを旅していた当時、わずかに覗く女性の髪の毛についておじさんに熱く語られた日は、さすがにカルチャーショックでした。わたしがグッピーであったら、そのままショック死しているところでした。しかししばらくイランにいるうちに、イラン女性が意図的に髪の毛をチョイ出ししている意図も見え隠れし、通りすぎざまの心理的な男女の駆け引きがそこに存在しているのだと氣がつき、髪の毛を見るだけで「確かにセクシーだ」と深く頷く自分が居るようにわたし自身の感覚も変化していきました。蛇足に次ぐ蛇足ですが、髪の毛を見ただけで、「セクシー」と感じてしまっていたわたしは、イランの次の訪れた「世界一ビジョの多い国(しかもそのおおくが奔放な装い)アルメニア」でいとも簡単に撃沈し、3、4日の滞在予定が、十倍に伸びてしまいました・・冗談はさておいて、わたしたちの感覚は、人によりまるで違います。そして、それが自然なことです。感覚どころか、インドのたとえ話のとおり、「白」という一見誰もに共通しそうな事柄でさえ、人により捉え方は違います。大げさでなく、耳の聞こえない人には、「音」はなく、目が見えなければ、「色」はありません。世界に色はある!!とどんな権力を用い宣言した所で、「ない人にはない」が事実です。同様に、「正しい」も「間違い」も「かっこいい」も「おいしい」も共通するものなど一切ないのです。その人が、こころから「正しい」と感じたことが「その人にとって(その人の世界)の正しい」なのです。そこに、理論や法律の出る幕などありません。つまり、「常識」や「普通」というものは、「<u></em>あった方が、多くの方が共通に話をする上で便利だから、あることにしているもの</em></u>」に過ぎないというのが事実です。「常識」も「普通」も本当はなく、虚構です。にもかかわらず、わたしたちの生きる社会では、この「常識」や「普通」が力を持ちすぎてしまっているのです。本当にはない虚構にも関わらず、本当の世界(個々が感じている世界)に侵入し、人によっては食い尽くされてしまっています。「おいしい!!」と感じたとき、それをそのまま声高らかに宣言できるでしょうか?それが流行っていないお店で飲んだみそ汁であったときと、5つ星レストランで食べた高級な料理であった時を想像してみてください。「5つ星レストランはおいしい」「流行っていないお店はおいしくない」常識とはそんなものです。ですが、真実は、「あなたがどう感じたか」と言うことに尽きます。「5つ星レストランで食べたけれど、まずいと感じた」ならば「まずい」でいいのです。「まずいと有名で流行っていない店(そんな店があるのかはしりませんが)で食べたけれど、ほっぺたが落ちるかと思った」なら、それがあなたの真実です。「まずい」と感じたのだけれど「5つ星レストランだし・・わたしの味覚がおかしいのかな?」となっては、虚の世界に食われていることに氣がつく必要があります。「~が正しい」「~は間違っている」「~は格好いい」「~を食べるのが良い」そんな虚構で世の中は満たされてしまっています。個々の力は、比例して弱まっています。「○○が正しいとわたしは思う!」という時に、理論や科学的根拠を持ち出す必要は本当はありません。「○○が美味しい!」というときにそのレストランの評判を氣にする必要も、全くありません。「あなたが、美味しいと感じたこと、あなたにとって栄養となりあなたが正しいと感じたこと、あなたがかっこいいと感じたこと。」そのすべてが信じるべきものであり、それこそが世界です。世界に皆にとって共通なこと(常識)などあり得ないのですから。一人ひとりが違う世界を生きている。それが揺るぎない真実です。だからわたしたちは、共感してみたいのです。他の人はどう感じているのか、確かめたいのです。だからこそ、会話をするのです。もし、「○○がおいしい」と答えが決まっている世界であるのなら、必要なのは答え合わせでだけであって、会話ではありません。瞑想は、瞳を閉じる所から始まります。外との繋がりを一旦切断し、内側で本当に何を感じているのかを眺めてゆきます。いろいろな価値判断や、思考の癖、そういったものが常識から植え込まれたものであることを発見しながら、奥深くに今も居る、本当の自分へとアクセスしてゆきます。瞑想は病氣を治すことで今では有名になってきていますが、病とは、「こころを否定してしまっている状態」から多くは引き起こされます。「本当のこころ」を発見し、守ってゆくこと。それは、「常識という本当にはない虚の世界から、自分の世界を取り戻し、自分の世界を守ること」に他なりません。感じたことを、堂々と、胸を張り、誰もが高らかに宣言してよいのです。クラスでは継続して瞑想を続け、「自分の世界をはっきりと取り戻すこと」を目指してゆきます。ご興味のある方は、どうぞ遊びにいらしてください。なぜか最後は宣伝になってしまいます。愛嬌としてお許しください。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。2016.05.14 02:46
〈意識的に、狂うということ〉こんにちは。TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。今回は、「意識的に狂うこと」について綴っていきます。お時間のあるときにお読みいただけたら幸いです。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~クラスではことあるごとに、両目を上に向けたり、あくびをするときのように口を大きく広げたり、手足をぶらぶらさせながら「あーー」と声を出したり、鼻のてっぺんを見つめたり・・変な動作と言うか、通常の私生活ではしない動きをしていただいています。必殺技と呼んでいる、とっておきの変な動作もあり、それは近いうちにクラスでも表現できたらと思っています。なぜ、変な動作を毎回のように動きの中に加えているかというと、それなりに訳があります。変という文字を辞典で調べてみると「普通と違うさま」「様子がおかしいさま」と出てきます。本当は変もへったくれもないものだと思っているのですが、わたしたちは「普通」という規準をもとに物事を捉え、その「普通」から外れると「変だ」と感じる訳です。なので、おしりをコップの水と手を使い「ウォシュレットは古代より、わたしたちによりすでに実践済みだ」というインド人を見たときや、手で食べものを掴み「まず、手のひらで味わう。これをしないなど神聖な食べものに対する尊敬を忘れている」というインド人を見たときに、「変だ」と思う訳です。インド人に限定してしまい、インド人の方、ごめんなさい。ですので、場所や状況が変われば「普通」も「変」も変わってゆくものです。けれど、通常は一つの国や一つの地域に根ざしていきているのが人間です。その場所に存在する「普通」であることを覚え、その枠組みから出来るだけ出ないように、皆氣を使って生きています。これは日本人に限らず、インド人もそうです。インド人にもインド人の普通があり、インド人も氣を使って生きています。(そうだといいな)なぜ、そうも皆「普通」の中に収まろうとするのか。それには、人間がそもそも動物であるという点が源になっていると僕は思っています。単純に皆と違う行動をとることで、「目立ち」ます。「目立つ」ということは、動物(特に草食動物)にとっては、いのちを脅かします。できるだけ、皆と同じように目立たずひっそりと集団にまぎれていた方が、外敵に見つからず、いのちを長らえることが出来るというのが道理です。わたしたち人間もご多分に漏れず、「生存本能」が宿っており、集団という安心の中にひっそりと入っていたい。つまり、「集団のお仲間に入れておいて欲しい」のです。ですので、この「生存本能」が目立つことを嫌がるのだと僕は思っています。「でも、目立ちたい!!」という方、よくよく見つめてみると、それは「良い意味で目立ちたい」ということに限定されているはずです。「どんな評価を得ようと、ただただ、目立ちたい!!」という方は、そうはいません。「良い評価を得ることが出来るという状況を真似し、目立つこと」は、「良い評価を得ることが出来る集団(意識)」のお仲間になることでしかなく、結果的には、集団(意識)に属し身を守っている状態です。つまり、わたしたちは、その場その場存在する「普通」の中に入り込んで、目立たず身を守りたい訳です。それが、生き物としての「本能」の働きだと思うのです。けれど、何を隠そうわたしたちは「人間」です。本能だけの存在ではありません。本能だけの存在である動物たちには、悩みはないとされています。本能に従うだけですから。人間は、「悩み」ます。本能を持ちながらも、「こうありたい」「表現したい」「感動したい」というこころを持っている存在だからです。そして、「こころ」は、誰しも独自性を持っています。皆と同じように出来てはいません。皆と同じようにひっそりと生きていれば、肉体として「生きながらえる」ことは可能です。けれど、「こころ」の独自性は、それでは不満なのです。肉体としての生存本能と「こころ」の独自性を持つが故に、人間は「悩む」ことが出来る唯一の生きものであると僕は思っています。肉体は肉体を存続させる意志を持ち、「こころ」はそれぞれに独自性を持っています。その観点から見ると現代は、肉体の生存本能優位に動いており、「こころ」の独自性を十分に発揮することがし辛い社会であることが言えます。ストレス社会と言いますが、「ストレス」とは、「こころ」が押さえ込まれ不自由になっているときに感じるものではないでしょうか。ピカソや岡本太郎などの、爆発した芸術性は「こころ」の躍動そのものであり、だからこそわたしたちの心を打つのだと思うのです。「普通」という観点から見たら、彼らの表現は「変」であり、「狂って」います。それは、彼らが「こころ」を自由に表現した結果であるからだと思うのです。「こころ」とはそれぞれに独自性を持ち、「普通」という観点から見たときに誰しもが「変」で「狂って」います。「変」で「狂って」いるにも関わらず、「普通」なふりをして身を潜めているのが、わたしたち人間なのです。そうやってみると、なんだか可愛らしいですね。ですので、僕のクラスでは、わざと「変な動き」や「狂っている動作」をすることで、本来の「こころ」へとアクセスしてゆくという目的があります。以前紹介したoshoはこれにいち早く着手しており、変な動きや踊りを取り入れていたようで、集り来る人々の精神疾患のことごとくを取り去っていったと聞きます。変な動きや、狂った動作をする時、「いやだな、やりたくないな」と感じるものもあるかと思います。その「いやだな」という感覚を見つけ、捉えていただけたらと感じます。その後ろには、「こうあるべきだ。こう見られたい」という「制限」や「自分とはこういうものだ」という固定された考えがあります。その固定化された考えが、苦しみや悲しみ、怒りを生み出しています。「いやだな」という感覚に氣がつき、薄皮をはがすがごとく、制限がはずれてゆく。その先には、苦しみや怒りが減っていき、本当の笑顔が待っているのだと信じています。クラスにご参加いただけます方、「変」で「狂っている」動き、これから増えてゆくことが予測されます。どうか、お付き合いいただけましたら幸いです。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。2016.04.23 02:46
〈インドエピソード・踊る瞑想体験〉TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています山崎大です。インドでの旅の中でダンシングメディテーション(踊る瞑想)と出逢い、大きな感銘を受けました。出逢いから体験までを綴っています。前回からの続きとなります。前回をお読みでない方は、「インドエピソード・ダンシングメディテーションとの出逢い」からお読みください。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~Osho瞑想センターでの朝は、6時から始まりました。ルンビニは開けており、遠くの地平線から太陽が顔を出し、また地平線へ太陽が沈んでいきます。亜熱帯特有の湿氣を含んだ朝の匂いを吸い込みながら、赤い朝日に一礼し、瞑想ホールへと向かう日々でした。朝一番から「ダイナミックメディテーション」という最高に激しい瞑想が始まります。宇宙音にも電子音にもとれる妖しげな音楽が建物を揺らし、その爆音の中でジャンプし続けます。口からは「はっ、はっ、はっ、はっ」(正しくは「ふ」の口で「は」を発音)と大きく息を吐き出しながら、飛び跳ねていきます。途中カタルシス(発散浄化)というシーンがあり、獣のように叫び声をあげます。叫び声は「うわー」とか「きゃー」とかいった可愛らしいものではなく、咆哮と呼べる類いのものです。「うぐぉろぐぁおーーーーーー!!!!!!!ぎょえええいいいいい!!!げえろげろ!!」のような感じです。胸を掻きむしり、口からはよだれを撒き散らしている方々もいらっしゃいます。「ああ、完全に狂気の沙汰だ。変な所に来てしまったな。」「僕は、そうはいっても正常な人間だから、ああいう下品なまねは出来ない。」と僕の中に住む防衛本能が身を守ろうと語りかけてくる一方で、「とうとう本物と出逢えた!ここで僕はもう一つ次の段階へゆけるのだ!」と喜んでいる僕が居たことを覚えています。始めて数日のうちは、僕の中に住む防衛本能が顔をよく覗かせていました。「そう、あの人たちは狂っているのだ。だからあんなによだれを垂れても平氣なのだ」「インド人やネパール人は、元々そういう氣質なのだろう。日本人はおしとやかだから。」と、時々薄目を開けて周りを伺いながら、変に浮かない程度に合わせながら体を揺すっている自分がそこには居ました。ある日、いつものように爆音の中で飛び跳ねていたときのことです。怒りが沸き起こり、押さえきれなくなりました。「あ、これを出してしまったら、きっとまずいことになる」と僕の中の防衛本能がブレーキを踏もうとしていることも分かっていました。「ぎょえええいいいい!!!!ぐおろぐぉがーーーー!!!」雄叫びと伴に、内側の怒りがブレーキをはね飛ばしていました。「ああ、僕は今狂っている、今日初めて来た方には惨いものを見せてしまったな、申し訳ない」とすこし離れたところから見ている僕が居ながらも、僕は獣同然に咆哮し続け、口からはよだれを撒き散らしていました。そんな瞑想の後、遠く地平線を眺めながら朝日を浴び、チャイを啜る中でいろいろなことに氣がつきました。僕たちは、この地球という自然の中に生まれ出た生き物であり、もともと100%自然の存在なのだ。自然であれば、笑いたいときに笑うのがいい。泣きたいときに、泣くのがいい。怒りがあるなら、怒るのがいい。それが、自然なのだ。けれど、現代はそれが叶わない。怒りは押さえ込まれ、笑いも場をわきまえよと封じられ、泣くこともそう容易くはない。押さえ込まれたそれらは、時と伴に消えてゆくように感じられるかもしれないが、決して消えていないのだ。体のある部分に蓄積されている。それの多くはお腹に貯まっている。日々大きな咆哮を続け、お腹が大いにゆるみ呼吸が深くなるごとに、実感を持って理会していきました。姿勢も自然と改善されていきました。「姿勢を正せ」とは良く聞くところですが、姿勢とは、無理して正す類いのものではいと今は感じています。自由に感情や内側を表現できることを確信と伴に実感するごと、緊張や制限は外されお腹はゆるみ、胸は開き、呼吸が深くなる。そうしたとき、自然と姿勢は正しくなっている。姿勢とは、結果なのだと今は、そのように捉えています。一月をoshoの瞑想センターで過ごした僕は、そのままヒマラヤの奥地へと足を運び、ヒマラヤに囲まれながらダンシングメディテーションを続けていました。どういう訳か、僕のお世話になっていたご家庭には、村とも呼べない集落にも関わらず、それなりのサウンドシステムが用意されており、毎日のように僕は爆音と伴に体を揺すり叫んでいました。村人たちは、所構わず踊り狂う僕をおもしろがってくれました。次第に咆哮のような叫びは姿を消し、ただ体を音に合わせ揺するようになっていきました。ある日のこと、いつものように最大音量で音楽を流しながらダンシングメディテーションをしていたときのことです。20分程でしょうか踊り続け、音楽が切れた所で動きを止めると、突然拍手喝采を浴びました。我に返り、辺りを見回すと、20人程の子どもたちや村人たちが円になり僕を囲み、ずっと見学していたようでした。「ワンモアプリーズ!ビューティフル!!!」と多くの賞賛を頂き、戸惑いながらそそくさとその場を後にしたことを思い出します。その時の僕のダンスは、集り拍手をしてくれた方々の表情から察するに、そこそこビューティフルだったのだと我ながら思います。「ダンスとは、内側の躍動が体に伝わったものに他ならない。」「ダンスと言えば、外側から型を覚え、その型通りに体を動かすことを通常は連想するのではないだろうか。けれど、その本質はこころであり、こころが踊り躍動し、それが体を通じて外側に現れたものなのだろう。」自身のヒマラヤでのダンス体験から、今ではそのように思っています。無我夢中の状態で音に身を委ね体を揺すり続けていた僕の体は、ますます弛んでいきました。ときどき、骨から全ての筋肉が浮き上がり、遠心力も助けとなり、普段意識できないような筋肉まで「とうとうわたしを見つけたね」と声を出すようなシーンもありました。ダンシングメディテーションは奥深く、その恩恵も計り知れないと感じています。僕自身もより、瞑想とその理会を深めながら、今後もダンシングメディテーションをクラスで扱っていけたらと思っています。ご参加いただけます方、最初の頃は「こんなことさせて、どうするつもりだろう?」であったり「なんだか妖しい儀式みたい」とお感じになることもあるかもしれません。ですが、続けてゆくうちにその声の主が、体に住み着く防衛本能の声であることを見抜き、瞑想の恩恵に触れる機会が出て来ると信じています。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~今回は、ダンシングメディテーションについて綴りました。最後までお読みいただけましたこと、ありがとうございました。2016.04.16 00:04
〜ナウリ浄化法〜そのメカニズム2こんにちは。TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。ナウリ浄化法を行うにあたり重要な部分である「内臓の引き上げ」をするには、呼吸をするために使う筋肉である横隔膜を鍛え柔らかくする必要について前回力説しました。けれど、横隔膜の筋肉が軟化し筋力が高まっても「内臓は引き上げ」はできない。という所で次回に持ち越しになってしまっていました。今回は、横隔膜の筋力同様に「内臓の引き上げ」行う際に重要である事柄について綴っていきます。横隔膜は、肋骨の底辺をドーム状に張っている膜であり筋肉です。息を吐くときに、横隔膜のドームは頂点を高め、肺が縮まり、つられて内臓が引き上がりお腹が凹んでいきます。この力を使い、「内臓の引き上げ」を行うのですが、引き上げを行う際にもう一つ重要な点があります。それが、「腹部が弛んでいること」です。お腹周りの筋肉、内臓が十分に弛んでいなければ、横隔膜の筋力が上がっても内臓は引き上がりません。そればかりか、無理に力で引き上げようとしてしまっては、内臓に損傷を与えかねません。内臓は、腹膜や内臓間膜と呼ばれる薄い膜でそれぞれが覆われているようです。普段、動きの多くない内臓であれば、膜と膜の間も動きはなく、癒着しているのではないかと感じています。実際にわたしが、お腹を弛めるいくつかの手法を自身に行っていた際に「メリメリッ」と内臓と内臓がこすれ合ったり、引き離されたりするような音が聞こえ、感覚的にも同様のことが起こっていると感じたことがあります。内臓が十分に可動し、弛んだ感覚を手に入れてからは、「内臓の引き上げ」はいとも簡単にできました。ですので、「腹部のゆるみ」が十分に行われていない時点での、内臓の引き上げは行わないということが大切だと感じています。では、どのようにして腹部を弛めるのか。そもそも、お腹は弛んでいない(緊張している)のか。率直に申し上げると、お腹には緊張が溜ります。そして、多くの方々は溜ったままになっています。どのような緊張かというと、感情的な緊張が溜っています。ぽーんと飛び出たお腹をしている子どもは多いと思います。(おおよそ5歳くらいまで)彼らの内臓状態は理想的だと言われますが、緊張がないためだと個人的に感じています。彼らは、泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑います。それが自然だからです。自然にしていると、お腹はぽーんっ、と飛び出しています。けれど、「泣きたくても泣けない。」「笑いたくても、笑えない」そんなシーンが成長するに従い増えていくものです。感情をあらわに表に出すことを、成長にしたがい押さえるようになっていきます。(それがなぜなのか、個人的にとても興味深い部分でありますが、今回は割愛します。)感情を抑えるとき、例えば「泣きたいけれど、泣かない」「笑いたいけれど、笑わない」そんなとき、力がこもるのがお腹です。そして、泣いているとき、笑っているとき、弛んでいくのがお腹です。お腹が奥に引っ込んでゆく年齢と、泣くことや笑うことを我慢するようになる年齢が似通っているのは、偶然ではないと感じます。わたしたちは過去を忘れていきます。時は過ぎ、当時どんなに辛く感じていた感情も日々薄れ、感じることは無くなっていきます。そうして、その出来ごとは解決したかに思えます。そこには、生存本能による「自己防衛」が働いています。感情的に未処理の物事を抱え続けていることを避けようとする「自己防衛」が物事を「忘れさせ」ていきます。忘れることで、日常に意識することは無くなっていきますが、意識しないだけで無くなった訳ではないのです。実際には、未処理の感情は緊張として、お腹に溜ったままになっています。蛇足になりますが、老人が痴ほうになるメカニズムも、この「自己防衛」の働きによるということが最近では分かってきているようです。本人が「分からなくなる」こと、または「忘れること」で問題が無くなったように本人には思えるのです。この忘れたようにしまわれた感情を流してゆくために登場するのが「瞑想」となります。瞑想には、様々な種類がありますが、どの瞑想にも共通して言えることは、体に溜っていた古い感情が抜けてゆくことだと思います。また、瞑想は、体をリラックスさせ脳波を落としてゆくことで深まっていきます。体をリラックスさせ、脳波を落としてゆくためには、横隔膜を使った深い呼吸が鍵になってゆきます。ですので、瞑想を深めれば横隔膜は自然と発達し、古い感情も流れお腹は弛んでいくということが言えます。ナウリ浄化法や内臓の引き上げは、結果自然とできるようになっている。と言えると感じています。お腹を弛め緊張として残っている感情を流してゆく瞑想で有効であるのは、「ダンシングメディテーション」や「光の呼吸瞑想」「お腹と対話する瞑想」などいくつか種類があります。それぞれ、機会を見つけ順を追って今後綴ることが出来たらと感じています。今回は、「内臓の引き上げ」を行うにあたり重要となる「腹部のゆるみ」についてでした。最後までお読みいただき、ありがとうございました。2016.04.04 23:10
インドエピソード〜ダンシングメディテーションとの出逢い〜「TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~」のクラスを開いております、山崎大です。今回は、ダンシングメディテーション(踊る瞑想)について綴っていきます。お時間のあるときにお読みいただけたら幸いです。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~瞑想・ヨガのクラスを開かせていただいている中で、毎回少しの変化を加えてゆくことを大切にしたいと思っています。それは、季節が変化していることももちろん、集る方々の体や心の状態も場所が持つ雰囲氣も、毎回少し違うものだと感じており、それに応じて変化を加えてゆくことが自然であるからだと思っているからです。行うボディワークや、瞑想にもそれぞれにおいて自分なりのこだわりがあり、中でもダンシングメディテーション(踊る瞑想)には、とりわけ大事にしたいコダワリがあります。場所や、集る方々の年齢層によって、ボディワークは相応に変化させていますが、ダンシングメディテーションだけは必ず取り入れています。塩尻のクラスには、70歳近い方々が多くいらっしゃいますが、民族トランス音源でダンシングメディテーションをしております。みなさま戸惑いの表情を隠し切れていないことは承知の上ですが、強行させていただいております。変化こそが自然であるならば、ダンシングメディテーションを行わないクラスがあってもいいのではないかとも思うのですが、どうしても取り入れたいのです。ダンシングメディテーションに僕が出逢ったのは、瞑想を求めインドを旅していたときのことでした。ヒマラヤの奥地で一人瞑想に耽っていたのですが、「はて、このままここにいて、果たしてどうなるものやら。どなたかに、自分の住んでいるこころの現状を教えていただきたい。誰か、瞑想の達人でも居てくれたら」と思っていたのでした。そんな僕は、瞑想の達人と言えば何を差し置いてもまずはブッダであろうと、ブッダのお生まれになった地である、ネパールはルンビニを目指したのでした。ルンビニは、開けていました。着いたとたん、穏やかな空氣を感じました。ブッダを求め、多くの方々が祈りと伴に訪れた地。祈りは風に溶け、ルンビニ全体を優しく包むようで、肌にまとわりつく穏やかさが心地よい所でした。どこに居ても漂っていたインド特有の荒々しさはすっかり姿を消していました。。ブッダは2500年程昔に、既に亡くなっておりました。そうであることは、ルンビニに着く以前より承知の上でしたが、ルンビニという地の持つエネルギーに触れ瞑想することで、行き詰まりを感じている自分に何かヒントをもらえるような、うっすらとした空氣のような確信があり、その思いを頼りにルンビニに来たのでした。Oshoという人物が、インドに居たことは知っていました。Oshoは生前、現代に生きるブッダであるとか、キリストやクリシュナの言葉を現代に蘇らせてくれる師であると呼ばれていたようです。ブッダにもキリストにも、僕は半生においてご縁はなかったのですが、oshoの著書は時々読んでいました。今まで分かり得なかった自身の内側のことを、分かりやすくも優しさを交え表現するoshoが僕は好きでした。僕のこころの声を代弁してくれる方であると、密かに尊敬を寄せていました。Oshoも既にこの世を去っていた存在ではありましたが、多数の著書は現代でも手に入り、ブッダやキリストよりも僕にとっては近くに感じることができました。ルンビニでブッダのお墓や、かつて彼が暮らした寺院を眺め、しばらく小さなその町を歩いていると、「osho」という看板が目に留まりました。「まさかあのoshoではあるまい」と思いましたが、看板の指し示す方向へ歩みを進めてゆくと、そこには現在も使われているoshoの瞑想センターがあったのでした。センター長に話をすると、「今日から来なさい」とのこと。トントン拍子で話は進み、住み込みで朝から晩まで瞑想付けの日々がスタートしたのでした。このoshoのセンターでダンシングメディテーションと出逢い、そのパワフルさに触れ、今まで身につけていた瞑想観が大いに変化してゆきました。「瞑想とは、じっと座っているものだけではないのだ。激しく、内側を放出するものが必要なのだ。それにより、更に深い瞑想への扉が開かれてゆく。」そんな思いを強烈に感じたダンシングメディテーションとの出逢いでした。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~文体を今までの調子と変えたため、ダンシングメディテーションに出逢うまでを引っ張ってしまい、のんびりとしたペースになりましたので、ダンシングメディテーションの体験エピソードは、次回に持ち越します。お読みいただけます方、文体が安定するまで何かと御迷惑をお掛け致しますが、お付き合いいただけましたら幸いです。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございます。2016.03.25 04:54
○○を食べると、良い!!TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いております、山崎大です。瞑想をすることで、食への関心が高まり、食に対する思いも変わりました。僕の食への立ち位置をつづりました。お時間のあるときにお読みいただけたら幸いです。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~○○を食べると良い。○○を食べると良くない。朝食は抜くのが良い。朝食はとらないと脳卒中になりやすい。などなど・・巷には情報であふれている。「どっちやねん。もうっ、いろいろ、うるさいわ。」であったり、「朝食は抜くのが良くて、あれ?でも脳しょっちゅうにはなりたくないから、たべる、けどだめ?あーれー。」と感じている方々は、多いのではないだろうか。僕自身、食べものに関しては割とこだわりを持っている方だ。そのどれもは、総じて体験から導き出してきた。どこかの博士が言っていたとか、研究所が出した実験結果だとか、そういったものに従うことは正直余り好きではない。自分の体や人生に関わることを、どこかの博士様にお任せする程ふらつくつもりはないし、個人差というものが大いにあると感じている。考えを率直に述べると、自身の外側に万能薬は存在しないと考えている。これさえ食べていれば、大丈夫。これさえやっていれば、大丈夫。そんなものは、ない。と感じている。ただ、そう思いたい氣持ちは分かるつもりだし、そう思ってきたことも実際にある。この世界に、原因のないことは起こらない。僕は自身の人生を振り返りそう感じている。全ての結果には、原因がある。それが見えにくかったり、見るための方法をわたしたちが知らなかったりするに過ぎないと思う体や精神の不調には、まず原因がある。そして、似たような症状を表していても、原因となるとそれは千差万別であることは言うまでもない。原因にアクセスできなければ、症状の根本解決にはならない。原因が人によって違う以上、誰にとっても効果のある万能薬などないと考える理由はそこにある。わたしたちは大事なものを忘れている氣がする。人間は、この地球に生きているひとつの生命体だ。独立して存在していない。繋がりの中で、一つの波のように存在している。であるならば、口に入れるものはどんなものが適切か、本当は皆知っているはずなのだ。博士などそこに出る幕はない。地球が生み出した自然のものが、口に入るのに一番適しているのは言うまでもない。そして、暑い土地に暮らす生命には、その土地から生まれたものが適しているのは言うまでもなく、寒い土地に生きる生命には、そこのものを食せば良い。寒冷地産の野菜たちが体を温め、熱帯の果物たちが体を冷やすことは、実験をするまでもなく自明の理だ。そして、新鮮な空氣を取り込み、太陽の光を十分に浴びること。どこかの会社の宣伝に従い、化学物質を肌に塗りこみ、太陽の日差しを避けやせ細り、精神を病む。従った結果は、不健康への道。どこに、向かいたいのだろう。どこに、先導されてゆくのだろう。誰が導いているのか、その先を見ているものは、いるのだろうか。情報に翻弄さた先には、不健康が顔を出し、自らの健全な判断を失い更に情報に操作されてゆく現実があるのではないだろうか。人間が繋がりの中を生きる一生命体であることを、腹の底から信じ切る必要に迫られているように思う。太古のヨーロッパには、人の病を取り去るおばあさんがいたという。おばあさんは、病のある人の家に伺い、家の周りを一周し、庭に生えている植物を摘み取り煎じて飲ませたようだ。その土地に暮らす人には、暮らす場所に暮らす人にとって適切な植物が生えているのだという。庭に生える植物を煎じて飲んだ方々の病は、改善されていったと聞く。そして、病を治すおばあさんたちは、過去に魔女と呼ばれ、排除されていった歴史がある。魔女狩りの後は、アロパシーと呼ばれる科学薬を用いた医療が世界を覆っていった。アロパシーは、儲かる。ナチュロパシーを初めとした自然医療は、自然が与える恩恵を使う。つまりただ同然なのだ。ナチュロパシーで病が治っては、儲けたい思いを持った人たちに不利になる。それ故に、弾圧され消されていった過去を持つ。○○を食べると体に良い。○○を食べると体に悪い。そんな情報は、どうでもよい。一人ひとりに、良いものも悪いものも違う。暮らす場所が違えば、体に良い食べものも違う。そして、わたしたちは地球に生きる一生命体だ。生命体である以上、生命を口にするべきなのだ。いのちは、いのちを口に入れるからこそ、その力をまた燃焼させることが出来る。栄養学でわたしたちは汚染されてしまった。食べものは栄養素などで分けられるものではない。エネルギーとして捉えるものであり、さらにはいのちであるかどうかが鍵を握る。発芽玄米が体にいいことは、それがいのちを含んだものであり、今まさに発芽するエネルギーがそこに宿っているものだからに他ならない。生成されたビタミン剤など、生きてはいない。そればかりか、過剰に偏っている。取り続ければ、自然の産物である体はどうにかなるだろう。厳しい言い方かもしれないが、化学薬など、論外。そして、情報で何を食べるかを決めることは、もうやめなければ、情報が氾濫する今、どうにかなってしまう。外側を見る時代は、もうすぐ終わりを告げる。見続けるならば、わたしたちが終わりを告げる。そのどちらかだろう。外側に答えはない。全ては内側に刻まれている。何が体に良いかは、口に入れた後の内側からの声に従ってゆく。それが人と違うことは、当然であり、同じになる必要はない。内側からの声を目覚めさせる。その方法はいくつもあろうが、僕が知っているのは瞑想だ。内側に今も流れる、いのちを刻み続ける自然と繋がってゆく。自然は今もいのちを動かし刻み、必要なことを伝えて来る。すべては、内にいる大自然を動かす存在から聞き出してゆく。病には、原因があり、それぞれの体験や環境によりそれは異なる。解決法も、必要な口に入れる食事も、全て異なるのだ。答えは、内側に。瞑想は、病氣を治すのだろう。それは、大いなる自然とつながる方法だからに他ならない。様々な情報が飛び交い人を誘っている。その先が、うつくしい世界でないことについ怒りを覚える。文体も厳しいものになってしまい申し訳なく感じる。人にとっては、攻められているように感じてしまうかもしれない。極端であることは、自分でも承知している。一つの意見として、お読みいただけたらありがたい。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~今回も最後までお読みいただけたこと、ありがとうございます。2016.03.19 00:02
yoga最強の浄化法ナウリこんにちは。[TAMAKARA YOGA ~魂と体をつなぐyoga~]のクラスを開いています、山崎大です。今回は、ヨガにおける強力な浄化法である「ナウリ」を動画と伴に紹介いたします。お時間のあるときにご覧頂けましたら幸いです。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ヨガの歴史をひも解いてゆくと、ヨガと聞いて多くの方々がイメージするポージング(アーサナ)の歴史は浅い。英国がインドを制圧していた18世紀ごろからヨガは、ヨーロッパでその名を馳せるようになり、誰が見ても分かりやすい曲芸に近いポージングを表に打ち出していたようだ。インドからは、ヨーロッパへ多くのポーズの上手なヨガをする方々が連れて行かれ、一躍有名になることもあったのだとか。ポージング(アーサナ)以前のヨガでは、浄化法と呼ばれる呼吸を軸にした動作や、そのまま呼吸法が重要視されており、その理由は、体を浄化しておくことでより深い瞑想へと達せられるからであったという。つまり瞑想が、根幹にあったのだ。ポージング(アーサナ)にも大きな恩恵があることは否定する余地はない。けれど、それこそがヨガであると言うような見方は、本質から大きく外れていると言わざるを得ない。ヨガは、体の感覚を観察し、そのまま瞑想へと入ってゆく一つの方法だと僕は捉えている。なので体が柔らかいとか、硬いとか、そういったことは余り重要でもなければ、はっきり言ってしまえば殆ど無意味に近い。もちろん、瞑想を深めてゆけば、思い込みがはずれ、(思い込みは肉体に蓄積しているので)体は柔らかくなる。けれど、体が柔らかいからといって、思い込みが少ないか、または体が硬いからといって、思い込みが多いかといったら、話はそう単純ではない。こちらについては、後々僕なりの体験から今の考えを表現していきたいと思っている。今回、お読みいただける方々のお時間を頂戴して、文として表現しているのは、かつてのインドでポージング以上にヨガで重要視されていた、「浄化法」というものがあるということをお伝えしたいと感じたからだ。中でも、特に強力な浄化法である「ナウリ」をお伝えしたいと感じている。初めに、「ナウリ」を簡単に言葉にしておこうと思う。インドでは、「うねり」「大波」を意味する言葉だと言う。インドで手に取ったアーユルベーダの書籍には、以下のような言葉が綴られていたように記憶している。「ナウリは、消化の火を燃焼させ、常に快適な氣持ちを生み、体質の不調和からくる疾患のことごとくを消し去る。老化から開放され、16歳の少年となる。」16歳の少年になってしまってはどうにも困るし、老化からの開放もどう考えても大げさだと感じる。けれど、快適な氣持ちを作り出し、体調の不調も大いに改善されることは実感としてある。ナウリを行うと、内蔵全体が上に引き上げられ、肝臓から腎臓、膵臓、胃、腸とあらゆる臓器がマッサージされる。内蔵は放っておくと下にさがりがちで、腸は多くの方々がうっ血した状態になっているという。そして、内蔵の動きが鈍り、うっ血が続くと体のコリを始め、あらゆる疾患が顔をのぞかせて来るという流れは疑いの余地はないと感じる。全ては内側から、内蔵から始まりを告げているのだ。特に最近では腸が、重要だと科学的にも明らかになってきている。「第2の脳」「考える腸」などと呼ばれ、それにまつわる書籍は、多数だ。腸の重要性は、吸収を司るあたりからはっきりしている。動きが鈍り、古い便がたまれば、腐敗が生まれ、それも吸収されてゆく。当然血も汚れ、頭の働きは鈍るだろう。腸が活性化すれば、体全体の循環が良くなる。血液もさらさらと流れ、頭も明晰になるだろうと感じている。また腸には、幸せを感じることと対応関係にあるホルモンである「セロトニン」が全体量の80%以上を作り出すことが最近になり分かってきたようだ。個人的な話なのだが、「ナウリ」を習得した後は、風邪のような類いは一切かかったことはない。また習得後のインドでは、地元の人と同様に生水を飲んでいた。時々思いっきり下しはしたが、下すのはそれ一度だけで、後はけろっとしていた。内蔵全体が非常に強力になったことを感じざるを得ない体験であった。また、小さな幸せや、人の良い所が大いに目に留まるようになった。今までイライラしていたことは、特に目に留まらなくなったのだろうか、氣にならなくなった。腸が活性化することでセロトニンが発生し、現状に関わらず幸せを感じる状態となったのではないかと感じている。全てを「ナウリ」の恩恵というには、無理があると思うが、個人的にはとてもお伝えしたい浄化法の一つとなっている。もし、習得していただけたら、今後の人生における一生の宝としていただけるのではないかとも期待している。なにも修行者のような修行を積む必要はない。ただ、ゆっくりと時間をかけて行わなくては、逆に体調を悪化させてしまう恐れもある。僕自身が習得したまでの流れをひも解いて、一連の流れとしてのメソッドができ上がった。ナウリを習得する特別クラスを、松本市内のお寺で3月から月に一回ずつ設けてゆく。日々の朝5分、夜10分の計15分を練習に割いてくださる方、数ヶ月の後には、ヨガの力強い浄化法を習得できるようお伝えしてゆきます。詳細ご希望の方は、ご連絡お待ちしております。arigatou0105@gmail.com~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~今回もお読みいただき、ありがとうございました。2016.03.12 02:41
瞑想は、病氣を治す薬となる。こんにちは。TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。瞑想を軸にしたクラスを展開しています。今回は、瞑想が病氣を改善に導くメカニズムを綴りました。お時間のあるときに、ゆっくりご覧いただけたら幸いです。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~体はどの部分も繋がり合い、連動する中で一つの動きをこなしており、不必要な部分は一つもないというのが、僕の考えの基本となっている。それはまるで、それぞれに意志を持った小さな生き物が寄り集まり重なり合って、体という巨大な一つの建物を造り上げ動かしている、そんなイメージだ。意志を持った小さな存在たちそれぞれが連携し、協力し合うことで、体という建物を保ちながら活動をしている。そして、お客さんとして僕らの意識が乗り込んできた。客にも関わらず、食べたいものを次から次へと入れて来る。おまけに、化学物質まで投入して来る。体を支えている存在たちは、たまったものではないが、それでも懸命に建物の修復を行い、その過程であるものは力つきてゆく。あるものは、力の弱った部分を支えるために過活動へ向かう。体が歪むことひとつの発生源は、この補い合いの中にあると感じる。体を支え合っている小さな存在たちは、声を発している。その声の最たるものが、病氣であり、体の痛みであろう。そもそも、病とは「わるい癖」という意味を持つ言葉だ。悪い癖を持った氣を抱え続けた結果、ということなのだろう。一度見直し、体という建物を支える存在一人ひとりを氣遣うような食事や生活にする必要があるのかもしれない。瞑想で病氣が治るという話を最近では時々目にするようになってきた。瞑想は、外から見れば瞳を閉じ、じっとしているだけに映る。それで病氣が治るなんてありがたい話なのだが、僕は自身の体験からこの話には太鼓判を押したい氣持ちだ。瞑想は、英語でmeditationその語源は、medicine(薬)であるとも言われる。多くの病氣を修復する万能薬であると、個人的には感じている。瞑想により病氣の治るメカニズムを、ここに言葉にしておきたいと思う。この場合の病氣とは、悪い癖の蓄積により、体が異常を発している生活習慣病を病氣として取り上げたいと思う。生活習慣病とは、体においてはもちろんのこと、俗にいう精神疾患も生活習慣病の一つとして捉えて差し支えないと個人的には感じている。精神疾患に置ける代表格である鬱や、自律神経失調も突然起こるように見えて、長らくの蓄積の後にその姿を表したとしたならば、生活習慣病の一つなのだと思う。前述したように、病とは、「悪い癖」という意味を持つ言葉だ。誤解を避けるために記しておくが、ここで言う「悪い」とは体にとって健康を損なうという意味だ。善かれと思って続けていたことも、体からしてみれば病氣の生みの親になっていることは少なからずあると感じる。癖とは、本人が氣づかぬ思い込みであり、氣づかぬこだわりがパターンとして行動に現れているものだと捉えることができる。また、過去における傷を守るが故の、過去における甘露を再度欲するが故の、無意識に組み込まれた条件反射なのだと感じる。瞑想には様々な種類があるが、ここでは基本的なじっと座った状態を保つ瞑想のことを取り上げたい。瞳を閉じ、じっと座っている。思考はすぐに活動を開始する。「あっ、そういえば・・明日は大事な約束があったっけ・・・」「さっき飲んだコーヒー、美味しかったなあ・・確かあれは、特別な焙煎をしている豆で・・」「もう今日は、瞑想はやめてしまおうかな・・コーヒー飲みたくなってきたし。」「いけない、いけないまた雑念にとらわれていた。わたしと来たらいつもこうなんだから・・」というような具合に、様々な思考が姿を現して来る。次から次へと、湧き出る泉を眺めるように、思考のすべてを見つめながら囚われず、うけながしてゆく。続けてゆくうちに、いつもの自分がどのような思考をつかんで行動を起こしていたのかが、見えて来る。これが瞑想の恩恵である一つの氣づき(アウェアネス)だと感じる。行動は思考を掴んだ結果に過ぎず、どの思考を掴むのかは、常に自らに決定権がある。思考はコントロールできず、生体の防御反応であったり刻み込まれた欲求であったり、その場その場で姿を変え現れてくるものだ。それらを受け流すことをし続けてゆくことで、どの思考を掴みどの思考を受け流すのか、自由な権限を本来持っていたことに氣がついてゆく(思い出す)のだと感じる。ある一定の思考を常に掴み、それがパターンとして刻み込まれたものが癖なのだが、一旦癖に氣がつくと、癖は次第に薄まってゆく。しかし、この段階では、病氣の改善が大きく現れて来るとは言えがたいのも事実だと思う。思考の流れを受け流すことを続けてゆくと、思考の数は自然と減ってゆく状態になってゆく。無思考状態へ誘われてゆくあたりから、瞑想が本来のその実力を現しはじめる。瞑想は、時に「こころの手術」とも呼ばれる。無思考状態から意識が深まりを見せてゆくと、こころに溜め込んでいた過去における傷や羨望といった執着が次第に浮かび上がるように、その姿を表しはじめる。まるで、過去を再体験するかの如く、目の前にありありと、当時の風景や匂い、音、味、感触と伴にその姿を表してくるようになる。このときに大切なことは、全てを高い視点から見守り、こころを揺らさないことだと感じる。この時点での脳波は、大抵においてシータ波というとても微妙な脳波となっている。アルファ波より更に精妙な脳波となる。こころが揺れ、展開される出来ごとに執着を示せば脳波は乱れ、たちまち元の意識へと戻されてしまう。日常的に瞑想をし、巡り来る思考や感覚のすべてをただありのままに眺める視点を造り上げておくことが鍵となるように感じている。ただ、すべてを眺めてゆく。展開される記憶をありのままに見つめると、どこで何をどのように捉え、どう傷ついたのか。その傷を守るために、どうしようとしたのか。その行為が未だに癖として染み付いていることもありありと見えて来る。幼い頃の傷、それを守るための行動。または、幼い頃に甘露を手に入れることができた行動。それをパターンとして、今に至るまでずっと続けていたという事実を見つけてゆく。当時の体験をありありと見つめ、その体験が今にどのように影響を与えていたのかを味わい尽くしてゆく過程は、こころを開放してゆく道となる。執着やこだわりの根源が理解され、開放され、当時の感情と伴に昇華され、癖はその姿を消してゆく。このときに、「悪い癖」であった病は、根源から断ち切られてゆくと感じている。現代は、病名が氾濫している。数を数えることもままならない程、その数は無数だ。しかし、同じ病名を当てられようとも、原因はそれぞれにおいて違う。原因こそが、根治の鍵を握る。原因は、過去のある体験から発生している。食生活を変えよ、と言われても変えられない場合が多い。それは、爪を噛む子どもに、その癖を取り上げた所で、髪の毛をむしり始めたり、皮膚を掻きむしる癖にかわってゆく流れに似たものを見て取れる。根本原因を癒さなくては、問題は消えてゆかない人間は、生きながら成長してゆく。確かに、まとった肉体は分かりやすく成長し、歳と伴に老いてゆく。それは、一つの成長ではあるのかもしれないが、その内には味わい尽くせていない幼い感情や、幼いこだわりが川底の泥のように沈殿し、波が立つごとに水面へと姿を現しているのではないだろうか。人は、姿形は変わっても、内を見つめひとつ一つの体験を噛み締め消化してゆかない限り、幼い日の自分が今も一緒にいるものだと感じている。その消化されない体験が、癖を生み、病氣を生み出していると感じている。内を見つめる時期が近づいている。病氣とは、そんな自己を見つめる時期が来たという知らせなのかもしれない。瞑想は、深い。深いが故に、恩恵も力強い。自身の瞑想を深めながら、より自由な表現で恩恵を共有できたらと願っている。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~お読みいただき、ありがとうございました。2016.03.05 05:58
瞑想を深めてくれる知識こんにちは。TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いております、山崎大です。「瞑想に興味がある。」そんな方々とお逢いすることが、最近とても多くあります。かのスティーブジョブズやビルゲイツといった方々も、日々の日課として瞑想を行っていたことが分かっています。そして、最近では科学的にも瞑想をすることで実際に脳の大きさが変化し、具体的には古代脳と呼ばれる「本能的に敵か味方か、快か不快かだけを判断する脳」の大きさが縮小し、人間脳と呼ばれる「感動する脳、緻密に思考する脳、直観の脳」の大きさが肥大してゆくことが、科学的にも分かってきています。ビルゲイツやスティーブジョブズといった彼らは、能力が高かったから人々に大きな影響を当てることが出来たと言えると思いますが、なぜ彼らの能力が高かったのかと言えば、そこには日課となっていた瞑想が鍵を握っていたのではないかと囁かれています。かく言うわたしも瞑想以前より頭がクリアになっていることが実感としてあります。このブログは数年前から続けているのですが、瞑想する前のブログと瞑想後に綴ったブログを比較すると、一度のブログに書いている情報量に大きな差があります。加えて、瞑想以前のわたしはやや下品な言葉を使う傾向にありましたが、今ではその下品さも大分薄まってきています。わたし自身、未だ練習中の身ではありますが自身の変化に驚いており、瞑想の効果を身をもって感じています。ですので、最近多くの方々が瞑想に興味があるという話をしていただけることは、とてもとても嬉しく感じています。瞑想と聞けば、「宗教と繋がりがあるのでは?」とか、「なんだかあやしい」と感じていたわたし自身が今では、「お伝えしたい」と感じているのだから、瞑想を迷走せずに行うことが出来たらその効果は折り紙付きです。「瞑想に興味がある」という方々がとても多いことは確かでありながら、「瞑想したけれど続かない。効果を感じない」という方々もまた非常に多いのも事実だと感じています。そして自己流で瞑想をある程度続けてみて、効果が出なかった場合、「瞑想は、大したものではない」と決めつけてしまう方も少なからずいると感じています。本当は、そのような方々も「瞑想して変わりたい。瞑想してより良くなりたい」という願いを持っていたはずです。ですが、効果が感じられないとき「瞑想をして効果が出なかったわたしがおかしいのでは?」という考えたくない疑問が心には浮かびます。その疑問を消し去るように、「おかしいのは、わたしではない。瞑想にそもそも効果がないのだ」と生存本能(自己防衛機能)は、解決策としての考えを与えてきます。本当は、瞑想に効果がないのでも、瞑想をして効果がなかったご自身がおかしいのでもなく、瞑想に対する理解がすこし偏っていたり、違っていたりということに過ぎないと感じています。瞑想は、目を閉じて行います。真っ暗闇です。そこから先、どう歩けばいいのか。行う前に、おおまかな理解をしておくことが必要かと感じています。瞑想をするときに、まず知っておく一つ重要なことがあります。それはわたしたちには、生存本能(自己防衛機能)が一人残らず組み込まれているということです。これを知っておくことが、非常に役に立ちます。簡単に生存本能を紹介させていただきます。生存本能は、命を守るために存在しています。一人ひとりにくっついている守り神のようです。特徴が大きく分けて5つあります。一つずつ見ていきましょう。~~~~~~~~~~~~~~~~1、 【人の欠点を即座に探す。】身を守るためには、危険を知っておく必要があります。生存本能は、人の悪い所をすぐに見つけます。また不潔であったり、くさかったり、そういったものも生存本能を不安にさせます。「生理的に受け付けない。」という状態も生存本能がその後ろにいます。2、 【変化を嫌う】生存本能にとっては、生存していることが何よりも大切です。長い間、同じ状況で生を維持することが出来たら、そこから抜けだすことは、何としてでも避けようとします。変化は危険を運んで来るかもしれませんから。変化を嫌い、新たなことへの挑戦を拒もうとします。挑戦するときに、急に不安になりますよね、この不安を生み出しているのが、生存本能です。3、【疑う】生存本能は、自分の身を守る為に動きます。相手を疑ってでも、身を守ろうとします。4、 【怒る】こちらも生存本能が使う行動の一つです。身を守るために、怒りを使い相手を威圧します。5、 【異性を性の対象として捉える。】「うほっ、いい女(男)」と反応しているのは、奥に住み着く生存本能です。生存本能には、生命の種を残す機能も組み込まれているため、異性を性の対象として捉えます。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~1~5までを見て、どのようにお感じになりましたか?守り神として、一人ひとりにくっついているにもかかわらず、随分と幼稚で、それに振り回されていては、人との関係も良好に結べないものばかりですよね。そうなのです。身を守ってくれるのは、ありがたいのですが、わたしたちは、この本能によって大いに苦労させられているのです。なぜこんなにもわたしたちにとって生存本能の行動が、幼稚に映るのかと言えば、生存本能は、脳で言う所の古代脳(爬虫類脳、動物脳)にその起原を持ちます。ですので、行動は動物的であり、爬虫類的なのです。瞑想とは、これらの本能の動きを見定め、理解し、彼らを飼いならしてゆく行為に他なりません。なので、実際に古代脳である爬虫類脳や動物脳が縮小し、新しい脳とされる人間脳が肥大化してゆくのだと感じています。そして、瞑想を行うときに、まず声を上げてくるのがこの生存本能なのです。目を閉じて、呼吸に意識を向けてゆく。この行為は、大抵の方々にとって、慣れない初めての行為になります。「変化」です。生存本能の嫌いなものの筆頭です。「目を閉じて、呼吸に意識を?なんじゃそりゃ、効果あるんかいな。効果なかったらどうしてくれんねん。」このような感じで、生存本能はとにかくいつもの慣れた状態に戻そうとしてきます。目を閉じでいるだけでも、「あ、そういえば・・」「さっきのテレビおもしろかったな。」「あ、救急車のサイレンの音だ。どこかでなにかあったのかな。」「もう三分は経過しただろう、やめようかな。こんなことしてる程暇じゃないし。」などなど、さまざまな思考として雑念として、いつもの慣れた状態に戻そうとしてくるのです。またかゆみや痛み、だるさとして、肉体感覚を使い抵抗を見せてきます。ですので、瞑想は始めようとした当初が一番大変であり、効果も感じにくいのが事実です。そのような声を、聞き流し、「またいつもの状態に戻そうとしているのだね、ありがとう。ご苦労様。」くらいに少し離れた所から、眺めるようにします。人によっては、今までのほぼ全ての行為が、生存本能の声に従って来たものであることに氣がつくかもしれません。わたしは、そうでした。雑念として、体のかゆみやだるさなどの感覚として、瞑想からいつもの慣れた状態に引き戻そうとして来る生存本能は、初めのうちはかなり強力です。なぜなら、変化は生存本能にとっては、命を脅かす危険なものだからです。危険から身を守るための行為ですから、強力です。そこを理解することで、瞑想の海を泳いでいけるのだと感じています。泳ぐという表現をしましたが、瞑想は泳ぐことに似ています。クロールや平泳ぎ、バタフライなど泳ぎ方を知り、実際に泳いでみる。いくら知識を持っていて、泳ぎ方も方法も知っていたとしても、泳げるかは別問題。知識はなくとも、泳げる方もいらっしゃいます。そして、初めのうちは誰もが泳げません。生存本能は、こんな危険なものもうやめてしまおうと、泳ぐことを嫌がります。それでも継続して続けることで、海の中の世界。深い、深い奥の世界まで、体験することが出来ます。瞑想は、泳ぐことと似ています。それは、こころの世界を泳ぐことのようです。初めはうまくいきませんが、泳げるようになった暁には、その恩恵もしっかりと用意されており、荒波もなんのその。氣持ちよく悠々と泳ぎ抜けていけるのだと感じます。とても深い深遠な世界へとも通じており、わたし自身まだまだ知らないことがとても多いことに、瞑想を通して氣がつきました。わたしが出来るのは、誰にでもできる簡単な泳ぎ方をお伝えし、瞑想の入り口をお見せすることです。その先は、お一人お一人が実際に泳ぎ、体験として受け取っていっていただけたらと願っております。「瞑想を続けているが、どうもしっくりこない。」など。やり方についての様々な疑問等、出来るだけ分かりやすくお伝えしていきますので、どうぞお氣軽にご質問いただけたらと思います。ご質問等は、下記までお願いいたします。arigatou0105@gmail.comまたクラス参加をご希望の方は、ページ最上部の「瞑想・yogaクラス」より最寄りの会場がございましたら、ご連絡いただけたらと思っております。クラス立ち上げ間もないですが、お伝えしていることには自信を持っておりますので、ご参加いただけたら幸いです。瞑想・yoga講師 山崎大~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。2016.02.29 12:03
瞑想中に眠くなるメカニズムTAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いております、山崎大です。「瞑想していると眠くなっちゃうの。どうしたらいいのかしらん?」と訪ねられることが最近続いたので、瞑想中になぜ眠くなるのか、また瞑想中眠くならないようにする方法をこちらに綴っていこうと思います。瞳を閉じて、呼吸をながーーく、はいてーー、すってーー。繰り返しているとたしかに、眠くなります・・数分前にお腹いっぱい食べたものなら、ものの数呼吸で夢の中です。まず始めに、「なぜ、瞑想中に眠くなるのか?」その問いにお答えするために、まずは脳波の話をさせてください。脳波とは、脳の中を流れている電氣信号で、それを使いわたしたちは肉体と脳をつなげ活動しています。普段わたしたちが活動している時、脳の中を駆け巡る信号である脳波はベータ波という、荒い(振幅の大きい)波となっています。この脳波は、緊張と対応関係にあり、緊張していると脳波はベーター波です。現代は緊張型社会。「9時から打ち合わせして、9時半には別件で打ち合わせして、9時50分には書類作成して、9時・・」といったように、皆と共通認識できる単位である時間で事が進み、緊張感と伴に事に当たった方が、うまくいきます。ですので、現代を仕事人として生抜くためには、常に緊張していることは、当然のことと言えます。つまり多くの方が、通常ベーター波で生きているということになります。ベーター波は、活動の脳波ですので、このままでは眠りに落ちることが出来ません。不眠症などの悩みを抱えている方は、ベーター波のまま固定されている可能性が大いにあります。睡眠中は、アルファー波やシーター波と呼ばれる、ゆるやかな(振幅の小さい)脳波となります。こちらは、リラックスと対応関係にあり、リラックスしていくと脳波はアルファー波となります。ゆったりとしたアルファー波音楽は、リラックスできるカフェなどで良く流れているのはカフェがリラックスタイムだからですね。ここからは、「なぜ、瞑想中に眠くなるのか?」に対するわたしの見解です。瞑想は、音、匂いなどの周りの環境を整え、呼吸を使いながら意図的に脳波を活動的なベーター波からリラックスしたアルファ波にしていきます。大抵の方々は、通常ベーター波で生活しており、睡眠中のみアルファ波におりてゆくというサイクルが多いと思いますので、体には「アルファー波=睡眠」という定式が組み込まれています。また、「瞳を閉じて内側を観察する」という行為は、小学校から大学に至るまで一切教わることがありません。日本の学校では「瞳を見開いて、まばたきせずに良く見ていなさい」という教育です。ですので、わたしたちは瞳を閉じるときといえば、大抵は睡眠時となります。つまり体には、「瞳を閉じる=睡眠」という定式が組み込まれています。行為は繰り返すことにより、深層意識へ入っていき、自動的に事が進むようにインプットされていく構造がありますので、「アルファー波=睡眠」「瞳を閉じる=睡眠」という二大定式が組み込まれていると、瞑想中はどうしても眠くなってしまうのだと感じています。かくいうわたしも夜中瞑想していたら、そのまま朝であったことは数えきれません。では、どうしたら瞑想中に眠くなることを防げるのか。重要な改善策ですが、一番は「毎日継続すること」です。「瞳を閉じる=瞑想」「アルファー波=瞑想」と定式づけるように、深層意識の書き換えを行っていきます。深層意識の書き換えは、「継続」もしくは「強烈な実体験」以外には起こりづらいのではないかと感じています。瞑想中、眠くなっても大丈夫。また次の瞑想中眠くなっても大丈夫。そんな大きな氣持ちで継続してゆくことが、一番の近道だと感じています。そして、瞑想はとてもすばらしい効果があり、「確かにこころが以前より晴れやかだけど、こんなものか」と初めはこのような感想をお持ちの方も多いと思いますが、続けていくうちに実際に脳の構造に変化が見られ、より幸せを捉え、感動するスイッチがオンになることが科学的にも分かってきています。あらゆる病氣を瞑想で治す方々が多く出現しているのも、個人的には大きくうなずけます。かさねて個人的なことで恐縮ですが、長い瞑想のコースを終えたわたしは、生き物のエネルギーをクリアに感じるようになり、木々や草花がより立体的に輝いて見え、映る世界のうつくしさの感動のあまり、静かな涙が数日の間止まらずに、ただひたすら感動し続けていたという経験があります。ですので、「眠くなってしまう→やめる」となってしまっては、とても惜しいと感じます。そして瞑想中に重要なことですが、「ねむくなってゆくことに氣がついている」ということです。継続してゆくと、どのあたりで眠りが近づいて来るのか(脳波がアルファ波に近づいた瞬間など)が分かってきます。そして、ゆらゆらとビジョンが見えては消え、夢の入り口が開かれ、実際に意識が遠のいてゆく・・その流れも氣がついてゆけます。人によっては、完全に氣がつきながら全ての夢を体験しているという状況まで起こるようです。わたしも数回、そのような体験があります。無理に、「眠くなってはいけない」とコントロールする必要はありません。「今、体が眠りに近づいているな。」と高い視点から見守り、氣がついていることが重要です。また、どうしても眠くなってしまい、その眠くなることがどうしても嫌だ、という方がいらっしゃいましたら、次の方法がお勧めです。朝一番に、短い瞑想をする。空腹時に、瞑想をする。継続が何よりも重要な鍵ではありますが、朝の瞑想、空腹時の瞑想も、氣付きの力が高まっており眠くなりづらいはずです。お試しいただけたら幸いです。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~次回は、瞑想をやめさせようとする数々の罠。について体や生命のメカニズムと伴に綴っていきます。どうぞ、よろしくお願いいたします。2016.02.23 06:52
南米ペルーの儀式「アヤ・ワスカ」体験[TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~]のクラスを開いております、山崎大です。世界一周の旅で一番強烈であった、南米ペルーでの儀式体験を前回に引き続き綴っていきます。前回をまだご覧になっていない方は、前回の記事【古代の儀式「アヤ・ワスカ」を綴る】からご覧ください。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーアマゾン流域は、想像を裏切らず蒸し暑かった。子どもたちが、物珍しそうに笑顔をのぞかせながら、こちらを見ていた。村には、シャーマン呼ばれる人たちが数人暮らしていた。何人かとお逢いし、その内の一人に儀式をとりおこなっていただくことにした。断食をするように告げられ、儀式は夜、精霊たちが活動する時刻に行うという。蒸し暑い中ではあったが、何も食べないことは特に苦ではなかった。それよりも、村の人たちの笑う顔、薪で茶が沸いている台所、ジャングルの木々で作られた小屋やベッド、アルマジロを仕留め嬉しそうに帰って来る人々の生活に瞳は奪われて、氣がつけば太陽は沈んでいた。時間にルーズという訳ではないのだが、南米を旅していて時間通りということは、そう多くなかった。8時に儀式を始めると聞いていたが、おおざっぱなものだろうと目安程度に捉えていた。時計など、きっと誰も持っていない村なのだ。そうはいっても日本人の血なのだろうか、30分前には指定された儀式用の小屋に入り、スタンバイしていた。緊張はしていなかった。ここには、来るべくしてきている。そんな、大船に乗った氣持ちで安心している僕が、儀式を目の前にする僕の背中を支えていた。シャーマンが小屋に入り、儀式を始めると次げ、ろうそくに灯を灯した。時刻は、ぴたりと8時を指していた。慎重に、ミリ単位で調整するように、アヤ・ワスカと呼ばれる飲み物をコップにシャーマンが注ぎ始めた。シャーマンは、そのコップを両手で包み腹の前に据えた。祈りだろうか、伝わる歌だろうか、シャーマンの表情からは以前見せていた笑顔は消えていた。真剣であるようで、どこか上の空であるような、不思議な顔をしていた。これは、本当に儀式なのだ。準備は、できたか?僕の中の誰かが、心を決めよと告げていた。アヤ・ワスカは、世界で一番まずい飲み物だと時々形容される。口に含んだ瞬間、頬の内側に木々が持つ特有の苦みが広がった。ほぼ同時に、塩と酸を含んだ強烈な刺激が、嗅覚を刺した。どろどろと粘りがあり、色を見ずともそれは口の中で、紛れもなく褐色であることを伝えていた。アヤ・ワスカはゆっくりと喉を通り越し、食道から胃が、どのように結ばれているのかを僕に克明に伝えながら、僕の内側を確かめるように進んでいった。飲み干した後も、ずっと口の中に味が残った。あぐらで座り背筋を伸ばし、瞳を閉じるように告げられた。これは、瞑想の姿だ。僕の中の誰かが、そのように分析していた。シャーマンは「イカロ」と呼ばれる精霊から授かった歌を歌い、儀式に参加するものたちを導くと聞いていた。イカロは、あくびのようであり、幼子の鳴き声のようであり、僕の歌という認識を大きく超えているものだった。イカロに耳をあずけ、瞳を閉じていると、確かに心は穏やかになり、思考の数は自然と減っていった。何分経過しただろう?文献によれば、30分程でアヤ・ワスカの成分は効果を発揮するようだ。ならば、恐らくはそのくらいの時間が経過したのだろう。鈴虫の鳴き声が、聞こえていた。カエルが池に飛び込んで、鳴いた。同時にバッタが跳ねた。どこに何匹の鈴虫が、どのような陣形を作り、音を奏でているのか、音を聞くだけで、見えた。氣がつけば、鈴虫の音は、耳のすぐ隣から聴こえ、耳から脳の中に入り込み、僕の脳の中で鈴虫たちが鳴き声を上げた。カエルもバッタもコウモリも、ジャングルの鳥たちも、すべて僕の内側から鳴いていた。一つひとつの鳴き声の音は、波紋となって、重なり、混ざり、ひとつの絵を生み出していた。彼らは、絵を、描いている。氣がついた僕の驚きをよそに、その絵は次々にその様を変えていった。色は驚く程鮮やかで、描写される風景は、ため息が出る程うつくしかった。高い山の麓に、湖が広がり、山からは滝が流れていた。彼らの描く絵は、映画のようだった。次々と、映像は流れるように姿を変え、氣がつけば美しい地球を描いていた。地球は、ぷるぷるのゼリーで出来ているように、小さく振動し、輝いていた。突然地球に表情が浮かび上がり、おおきな笑顔がうまれ、瞳からは涙が溢れ出た。体の中心から、心地よいしびれが全身に広がり、僕は僕自身も映像の地球と同じように、大きな笑顔を作り、泣いていることに氣がついていた。「お前に、本当のことを見せてあげよう。」突然、厳かな声が聞こえた。「体の奥をみつめ、ひとつの細胞を見つめよ。そこには全てが記されている。お前は、全てを従えた、永遠の存在なのだ。」眉間が急激に熱くなった。激しい熱で、痛い。やめてくれ!僕の中の誰かが、そうさけんだ。ここで避けたら、何をしにきたのだ。覚悟を持って、見定めよ。もっと大きな別の誰かが、叫び逃げ出そうとする僕を諭していた。眉間は、熱を持ち、赤く腫れ上がったように感じられた。バリッっと音が聞こえた。眉間が破れた。そう感じた瞬間、背骨の一番下、仙骨がものすごい速度で振動を開始した。同時に意識は、瞳を内側へ向かい、網膜を通り抜け、視神経を辿り、首筋から心臓へ向かった。そのまま意識は、ものすごいスピードで、心臓の奥の細胞の一つへと焦点を定め、飛び込んでいった。空間が、広がっていた。膨大な記憶が、刻まれた空間だった。生命体の記憶だ。地球上に水が生まれ、小さな微生物がうごめいていた。緑色の微生物だ。次第に動きを伴い、アメーバのような動く微生物となった。次第にそれは、魚のような生き物となり、陸を歩けるカエルのようになっていった。爬虫類が、争いあっていた。恐竜とは、本当にいたのだ。意識の僕が、生命体の記憶を眺めながらつぶやいていた。鳥となり、大空を羽ばたいている感覚や風景、羽を広げ羽に受ける大氣の圧力をリアルに感じ、肩甲骨が翼の名残であることを読み取っていた。そうこうするうちに、生命体の記憶は、人間へとたどり着いていた。白血球は、アメーバそのものであり、尾てい骨は尻尾の名残であり、手には水かきの面影が残る人間という生命体。その奥には、あらゆる生命の膨大な記憶が刻まれていた。そして、僕の意識は、青白い光となって空間に浮かんでいた。心地よかった。熱くも、寒くもない。時間は、なかった。なぜかと聞かれても、答えられない。そこには、時間は存在しないということだけはよくわかった。ずーっと下の方に、いままで使ってきた体が横たわっていた。ああ、あの体だ。愛しい、愛しい、あの体だ。そう感じた。いろいろな体験をくれた。人と交わった。様々な大地へと運び、肉を通した体験をくれた体だ。感じたことのないほど、愛おしさを感じた。ありがたい。肉体を使った。体験の世界。もう、肉体を離れ、心地の良い光の世界に行けることもよく分かっていた。少しだけ、迷いがあった。でも、まだこの体を使い体験させていただこう。そう、決めた。ずーっと下へと降りていった。降りていくことは、思った以上に大変だった。どす黒い、泥のようなものが、まとわりついてきた。様々な恐怖や、悲しみや苦しみ、そういったものが降りるに連れて、伴にくっついてくるようだ。「これが、この世界の体験なのだ」諭すような声が聞こえた。「光として、更なる光をもって、闇で包まれた上でも更に光ってみよ。」「光は、震えることで、光を増す。光にとっての震えとは、感動だ。」「感動せよ。感動させよ。闇は、苦しみとして悲しみとして、感動を生み出すために存在させた。」「全ては大した問題ではない。感動に向かい、感動を生み出すために前進するのだ。」厳かな諭す声が、肉体へと降りてゆく魂の僕に、力強く語りかけていた。瞳を開けようとする。開け方が、分からない。上と下、右と左が分からない。瞳は何とか開けたが、空間に浮かんでいる物体が、自分の手であると認識するまでには、相当の時間を要した。指の動かし方を、思い出すように、確かめるように行う中で、このようにして幼い肉体に宿ってきたことを思い出していた。そうか、こうして僕は、この星に生まれてきたのか。アヤ・ワスカを通して、もう一度僕は、この世界に生まれた。2016.02.20 01:35
太古の儀式「アヤ・ワスカ」を綴るみなさま、こんにちは。TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。世界中を旅する中で、たどり着いた場所が、瞑想でありyogaでした。現在は、地元を中心にクラスを開いております。こちらでは、エピソードを交えyogaと瞑想について綴ってまいります。ご興味のおありの方、お付き合いいただけたら幸いです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー なぜ、僕が瞑想やyogaをお伝えしたいと感じているのか。なぜ、よりによって僕が。瞑想やヨガとは、随分と違う領域を生きてきた人間だ。体を動かすことは、大学を卒業してから殆どしていなかったし、特別必要とも感じていなかった。大金持ちになりたいとまでは思わないにしろ、それなりに物を望んでいた。女性にももてたいと感じていたし、劣等感を優越感に変えたかったのだろう。上質な物を欲しがっていたように思う。そんな僕は、上質な洋服を扱うアパレル会社に勤めており、ある日脳卒中を起こしたのだった。強烈に人生にストップがかかり、今までを振り返らざるを得なくなった。泣いても笑っても、一度きり。自分とは、後にも先にも、ここにしか存在し得ない。そんな聞き慣れた言葉たちが急にリアリティを持って、僕の前に立ちはだかっていた。覚悟を決めたと言えば、聞こえはいいかもしれない。ただ、もう、どうでも良かったのだ。脳卒中から人生は拍車をかけて、急な展開を見せていた。人生という歯車が転がっていった。加速度が増し、一定の速度がついた時、それはもう制御など出来なかった。歯車は転がり続け、いろいろな物にぶつかり、蹴散らしながらやがて止まった。止まった後は、ただ静かだった。離婚し、職もなかった。旅に出ることは、決めていた。脳卒中で倒れ、運ばれた病院で決めたことだった。「いつかやろう」と決めていた。「いつかやろう」は、一生やらないということだと知りながら、決めていた。でも、なぜだろう。氣がついたときには、全てが揃っていた。後は旅立つだけだった。「お前は、旅に出なければならない」そんな重圧を持って、人生そのものが迫ってきていたように今は思う。旅に出た僕は、いろいろなものをみたいと思った。「どうして、この世界に生を受けたのか?」誰しもが、一度は抱きながらも、奥へとしまい込んだ疑問。皆が感じている。失うものなど、もう何もない。ならば、僕はそこに身を投じよう。旅を続ける原動力は、ただその一点においてだった。貪るように国々を旅し、多くの人や文化と出逢っていった。「もう、どうでもいい」そんな僕の中に住み着いていた、投げやりな幼さは次第に癒され、人間が生きること、人がつながってゆくこと、苦しみが生むドラマ、自然が生み出す筆舌に尽くし難い情景、その奥底に流れる圧倒的なやさしさに、夢中になっていった。旅は、僕に人との出逢いを用意し、自然との繋がりを思い出させ、生きることへの活力を取り戻させた。旅が、僕を癒した。ただ僕は、もっと知りたかった。旅が僕に与えてくれた体験は、個人的なものだった。もっと強烈に、共有し、皆で泣き崩れるような感動が出来る。そんな思いがありながら、その術を知らず、一人にすらうまく伝えられない。そんなもどかしさがあった。また、世界は、経済で縛り上げられてもいた。都市部へ行けば、人々は着飾り、たしかにお金を持っていた。そして表情はかたく、歩く速度は早い。いつも頭の中のモーターが高速回転しており、食べの味すら感じてない。そして、外側から与えられた「こうあるべき姿」というものに向かっていた。彼らは、いつの間にか本当にやりたいことを忘れていた。「こうあるべき姿」が外側から与えられたものであることも、忘れていた。あるべき姿に向かうことが、正しいことであり、そうしない人を蔑むようだった。街を眺めながら僕は、目の前を通り過ぎる何人もの昔の僕を眺めていた。彼らは、生きる本当の喜びなど知る由もない。彼らは、完全にコントロールされていた。彼らにとってコントロールされることは、初めは苦痛だった。でも、コントロールされ続けた。嫌がる心を滅しながら、コントロールされ続けた。次第にコントロール無しでは、生きることが出来なくなっていき、おまけに幼い世代をコントロールする側にまわっていた。それは、以前の僕の姿であり、救い出すべき存在たちだった。これ程まで多くの人たちが、無感動に生きている事実。六十数カ国を旅した後だろうか。世界は、隅々まで、経済の支配が入り込んでいるように僕には映った。この支配構造を打破しなければ、人と真につながり、感動の爆発を起こすことは難しい。僕は、本を書きながら旅していた。心の深い部分を突き刺すような、生を感じるような、そんな本が書きたかった。「でも、まだ足りない。」旅を続けながら、そんな想いをぶら下げていた。多くの国々を体験し、多くの民族、文化に出逢い、心から感動し、涙した。でも、何かがまだ足りなかった。つかみ取れていない、何かを感じていた。僕が感じ取れていない以上、表現などもっての外だった。南米ペルーには、「アヤ・ワスカ」という儀式がある。アヤとは、魂を意味し、ワスカとは、繋ぐという意味らしい。魂と繋がる。そんな儀式だと言う。聞くところによると、「リアリティを持って、前世を再体験した。」「死んだ遺族に会い、実際に会話をした。」「生命の膨大な記憶を実体験した。」「実際に猫や犬、虫やヘビになり、彼らの視点や感覚を体験した。」「人知を超えた神のような存在や、まばゆいばかりの光と実際に出逢った。」など、眉唾とも言える体験談は枚挙に遑がない。そして、旅する中で体験を終えてきた人たちにも何人もお逢いしていた。アヤ・ワスカとは、ある植物の根っこを煎じたお茶を飲み干す。その作用と空間に存在する精霊たち、そしてシャーマンと呼ばれる人間が、人をそのような体験の出来る空間へと導いてゆく。ペルーでは、万能の薬となる儀式だとされている。ガンを始めあらゆる病氣、精神疾患を治すとされる。しかし、お茶の成分にDMT(ジメチルトリプタミン)と呼ばれる物質が含まれているらしい。天然由来の成分ではあるが、これはアメリカ政府が違法だと定めているものの一つだ。アメリカからの指摘に、ペルー政府はアヤ・ワスカの儀式を国宝と定めることで守っている。ペルーでは、2000年以上前から続いてきた儀式なのだ。アメリカを取るか、はたまたペルーか。そんな2極論ではなく、僕はそこに真実があることを感じていた。時々儀式で死者も出ることが知られていたが、迷いの余地など一切なかった。アマゾン流域の足を伸ばし、民族の暮らす村を訪問した。つづく。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー分量の関係上、続きは次回に持ち越させていただきます。最後までお読みいただけたこと、ありがとうございます。2016.02.18 00:36