瞑想は、病氣を治す薬となる。
こんにちは。
TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。
瞑想を軸にしたクラスを展開しています。
今回は、瞑想が病氣を改善に導くメカニズムを綴りました。
お時間のあるときに、ゆっくりご覧いただけたら幸いです。
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体はどの部分も繋がり合い、連動する中で一つの動きをこなしており、不必要な部分は一つもないというのが、僕の考えの基本となっている。
それはまるで、それぞれに意志を持った小さな生き物が寄り集まり重なり合って、体という巨大な一つの建物を造り上げ動かしている、そんなイメージだ。
意志を持った小さな存在たちそれぞれが連携し、協力し合うことで、体という建物を保ちながら活動をしている。
そして、お客さんとして僕らの意識が乗り込んできた。
客にも関わらず、食べたいものを次から次へと入れて来る。
おまけに、化学物質まで投入して来る。
体を支えている存在たちは、たまったものではないが、それでも懸命に建物の修復を行い、その過程であるものは力つきてゆく。
あるものは、力の弱った部分を支えるために過活動へ向かう。
体が歪むことひとつの発生源は、この補い合いの中にあると感じる。
体を支え合っている小さな存在たちは、声を発している。
その声の最たるものが、病氣であり、体の痛みであろう。
そもそも、病とは「わるい癖」という意味を持つ言葉だ。
悪い癖を持った氣を抱え続けた結果、ということなのだろう。
一度見直し、体という建物を支える存在一人ひとりを氣遣うような食事や生活にする必要があるのかもしれない。
瞑想で病氣が治るという話を最近では時々目にするようになってきた。
瞑想は、外から見れば瞳を閉じ、じっとしているだけに映る。
それで病氣が治るなんてありがたい話なのだが、僕は自身の体験からこの話には太鼓判を押したい氣持ちだ。
瞑想は、英語でmeditationその語源は、medicine(薬)であるとも言われる。
多くの病氣を修復する万能薬であると、個人的には感じている。
瞑想により病氣の治るメカニズムを、ここに言葉にしておきたいと思う。
この場合の病氣とは、悪い癖の蓄積により、体が異常を発している生活習慣病を病氣として取り上げたいと思う。
生活習慣病とは、体においてはもちろんのこと、俗にいう精神疾患も生活習慣病の一つとして捉えて差し支えないと個人的には感じている。
精神疾患に置ける代表格である鬱や、自律神経失調も突然起こるように見えて、長らくの蓄積の後にその姿を表したとしたならば、生活習慣病の一つなのだと思う。
前述したように、病とは、「悪い癖」という意味を持つ言葉だ。
誤解を避けるために記しておくが、ここで言う「悪い」とは体にとって健康を損なうという意味だ。
善かれと思って続けていたことも、体からしてみれば病氣の生みの親になっていることは少なからずあると感じる。
癖とは、本人が氣づかぬ思い込みであり、氣づかぬこだわりがパターンとして行動に現れているものだと捉えることができる。
また、過去における傷を守るが故の、過去における甘露を再度欲するが故の、無意識に組み込まれた条件反射なのだと感じる。
瞑想には様々な種類があるが、ここでは基本的なじっと座った状態を保つ瞑想のことを取り上げたい。
瞳を閉じ、じっと座っている。
思考はすぐに活動を開始する。
「あっ、そういえば・・明日は大事な約束があったっけ・・・」
「さっき飲んだコーヒー、美味しかったなあ・・確かあれは、特別な焙煎をしている豆で・・」
「もう今日は、瞑想はやめてしまおうかな・・コーヒー飲みたくなってきたし。」
「いけない、いけないまた雑念にとらわれていた。わたしと来たらいつもこうなんだから・・」
というような具合に、様々な思考が姿を現して来る。
次から次へと、湧き出る泉を眺めるように、思考のすべてを見つめながら囚われず、うけながしてゆく。
続けてゆくうちに、いつもの自分がどのような思考をつかんで行動を起こしていたのかが、見えて来る。
これが瞑想の恩恵である一つの氣づき(アウェアネス)だと感じる。
行動は思考を掴んだ結果に過ぎず、どの思考を掴むのかは、常に自らに決定権がある。
思考はコントロールできず、生体の防御反応であったり刻み込まれた欲求であったり、その場その場で姿を変え現れてくるものだ。
それらを受け流すことをし続けてゆくことで、どの思考を掴みどの思考を受け流すのか、自由な権限を本来持っていたことに氣がついてゆく(思い出す)のだと感じる。
ある一定の思考を常に掴み、それがパターンとして刻み込まれたものが癖なのだが、一旦癖に氣がつくと、癖は次第に薄まってゆく。
しかし、この段階では、病氣の改善が大きく現れて来るとは言えがたいのも事実だと思う。
思考の流れを受け流すことを続けてゆくと、思考の数は自然と減ってゆく状態になってゆく。
無思考状態へ誘われてゆくあたりから、瞑想が本来のその実力を現しはじめる。
瞑想は、時に「こころの手術」とも呼ばれる。
無思考状態から意識が深まりを見せてゆくと、こころに溜め込んでいた過去における傷や羨望といった執着が次第に浮かび上がるように、その姿を表しはじめる。
まるで、過去を再体験するかの如く、目の前にありありと、当時の風景や匂い、音、味、感触と伴にその姿を表してくるようになる。
このときに大切なことは、全てを高い視点から見守り、こころを揺らさないことだと感じる。
この時点での脳波は、大抵においてシータ波というとても微妙な脳波となっている。
アルファ波より更に精妙な脳波となる。
こころが揺れ、展開される出来ごとに執着を示せば脳波は乱れ、たちまち元の意識へと戻されてしまう。
日常的に瞑想をし、巡り来る思考や感覚のすべてをただありのままに眺める視点を造り上げておくことが鍵となるように感じている。
ただ、すべてを眺めてゆく。
展開される記憶をありのままに見つめると、どこで何をどのように捉え、どう傷ついたのか。
その傷を守るために、どうしようとしたのか。
その行為が未だに癖として染み付いていることもありありと見えて来る。
幼い頃の傷、それを守るための行動。
または、幼い頃に甘露を手に入れることができた行動。
それをパターンとして、今に至るまでずっと続けていたという事実を見つけてゆく。
当時の体験をありありと見つめ、その体験が今にどのように影響を与えていたのかを味わい尽くしてゆく過程は、こころを開放してゆく道となる。
執着やこだわりの根源が理解され、開放され、当時の感情と伴に昇華され、癖はその姿を消してゆく。
このときに、「悪い癖」であった病は、根源から断ち切られてゆくと感じている。
現代は、病名が氾濫している。
数を数えることもままならない程、その数は無数だ。
しかし、同じ病名を当てられようとも、原因はそれぞれにおいて違う。
原因こそが、根治の鍵を握る。
原因は、過去のある体験から発生している。
食生活を変えよ、と言われても変えられない場合が多い。
それは、爪を噛む子どもに、その癖を取り上げた所で、髪の毛をむしり始めたり、皮膚を掻きむしる癖にかわってゆく流れに似たものを見て取れる。
根本原因を癒さなくては、問題は消えてゆかない
人間は、生きながら成長してゆく。
確かに、まとった肉体は分かりやすく成長し、歳と伴に老いてゆく。
それは、一つの成長ではあるのかもしれないが、その内には味わい尽くせていない幼い感情や、幼いこだわりが川底の泥のように沈殿し、波が立つごとに水面へと姿を現しているのではないだろうか。
人は、姿形は変わっても、内を見つめひとつ一つの体験を噛み締め消化してゆかない限り、幼い日の自分が今も一緒にいるものだと感じている。
その消化されない体験が、癖を生み、病氣を生み出していると感じている。
内を見つめる時期が近づいている。
病氣とは、そんな自己を見つめる時期が来たという知らせなのかもしれない。
瞑想は、深い。
深いが故に、恩恵も力強い。
自身の瞑想を深めながら、より自由な表現で恩恵を共有できたらと願っている。
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お読みいただき、ありがとうございました。
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